9.26

ぼくは白石麻衣が好きでない。というより、そもそも白石麻衣はアイドルらしくないなと思ったりする。

 

感情論はさておき、専門家の唱えるアイドル論をかなり狭義に解釈すれば、白石麻衣はアイドルのプロトタイプからは遠い存在であろう。

 

アイドル論的に、女性アイドルに対して男性ファンは庇護の願望を抱く。これはジェンダーの性質として、男性が女性の上位的な立場であろうとすることが関係している。以下その話。

 

 

第一に、「かわいい」は基本的に、不完全性に対して用いられる言葉であるらしい。
たとえば容姿を例にすると、「美人な顔」に対して「かわいい顔」のほうが理想的な顔から遠い、ということが研究で明かされているのだとか何とか。つまり「かわいい」とは、どこかしらの不完全性を内包しており、たとえば「小さい」「幼い」といった特徴がある。

性格に関しても同様で、十分な落ち着きや適応力を示す大人的な完全性ではなく、はしゃいだり、幼稚であったりするような、子供的な不完全性に対して「かわいい」は用いられる。
女性の完全性に対して用いられる語こそが、「美しい」である。

 

しかし、アイドルは「かわいい」ことがプロトタイプである。つまり、不完全性を伴っているような、たとえば幼い存在に対して、近付きやすさ、かつ庇護欲を生み出すことが、アイドル消費の基本形である。そして、庇護欲は掘り下げて言及すれば、欠けた部分を伴った「かわいい」アイドルを、さも男性が上位的なポジションに立っているかの如く「守ってやろう」とする願望のことを指している。

 

まとめると、女性アイドルの消費は、男性ファンの上位性によって成り立っているのである。容姿にしろ、性格にしろ歌やダンスにしろ、ある種の不完全性があり、そこに庇護欲や応援したくなる心理を働かせることが軸となる。(というのが基本的なアイドル論)

 

ところで、ある観点から捉えれば、「かわいい」と「かっこいい」は対となる概念ではない。上記のとおり、「かわいい」は不完全性を示すが、「かっこいい」は主に男性における完全性に対して用いられる。
男性アイドルは「かっこいい」、即ち、女性ファンは下位的な立ち位置から、男性アイドルに対し上位性を求めている。

 

アイドル消費の根底には、こういった旧来的、否、本能的なジェンダー観が根付いている。

 

「アイドル国富論」曰く、男性が女性の不完全性を偶像としたことは、日本の社会がある程度安定し、何を目指すべきなのかといった明確な到達先も曖昧で、「引きこもり」等も抱える状況の中で、ヘタレ主義(完全な理想を追い求めなくてもよいのでは感のある社会)の性質を抱えているからだとか。
韓国はヘタレ主義からは程遠いマッチョ主義(上昇志向抜群)なために、韓国アイドルはKARAのような美しさ、つまり完全性の象徴が好まれる。


はてさて、白石麻衣は「完全」ではないだろうかと思う。確実に「美しい」であろう容姿。気後れなく、どのような社会でもやっていけるであろう性格。そんなに問題もない歌唱力にダンス力。虐められていた、という点だけが庇護欲を掻き立てるものの、現在の彼女のアイドルとしての面影から、それを感じ取る者がいるのだろうか。

 

西野七瀬はコミュ障引きこもりで、齋藤飛鳥は世話がなければ何もできず、秋元真夏は頭が大きい。
まさしく不完全性を象徴するような人気メンバーの中に、さもアイドルでなくモデルかのような(モデルであるが)完全性の象徴が混じっている気がしてならないのである。論的に捉えるならば、白石麻衣は現代アイドルの基本形とは遠い。そして白石麻衣が、これからの新しいアイドルタイプなのかもしれない。

 

巣鴨睦月は「自分の手の届くところに、自分の思い通りになる相手を閉じ込めて、自分以外のなにかを救うフリをするんです」と言った。
脳内宇宙において、アイドルという偶像を思い通りに扱う人見広介のような人間からすれば、全くもって何も征服の余地が存在しない白石麻衣は、怖い。脳内宇宙に置いておけない。長沢菜々香を召喚した。

 

9.15

わかりやすい話からはじめたい。

 

アイドルの市場には、同性消費市場と異性消費市場が存在する。同性によって消費されるか、異性によって消費されるか、といった話である。

 

80年代アイドルのトップは、基本的に同性消費市場である。たとえば松田聖子ファンの中心は女性である。彼女のアイドル像は、「女性の想う、女性の理想像」を反射していたからだ。家父長制といった社会の流れに根付いていた''男性に付き随う女性像''からの脱却といった側面が見え隠れした80年代。ある種の明朗的・開放的な意における「女らしさ(しかし旧来的な''お淑やかさ''は保っている)」を体現する、ロールモデルとしての存在であった。

 

一方、現代のアイドル消費は、基本的に異性消費市場である。当然そこに秘められるモノは、疑似恋愛性である。つまり、乃木坂46の姿は、''女性の憧れ''ではなく、''男性の理想的な交際相手''である。

 

たとえば不倫や離婚を繰り返した松田聖子の人気が衰えることは決してなく、一方、結婚発表を行ったAKB48はバッシングの嵐に遭った。松田聖子は同性消費であり、不倫に隠された「女性の開放性・自由性」を女性が支持する一方、異性消費であるAKB48は、結婚という、疑似恋愛性への破壊行動に対して不支持の論説が唱えられるわけである。


「昔のアイドルは高嶺の花だったのに、最近のアイドルはその辺に咲いてる花だ」といった悲嘆的な指摘を目にしたことがある。無論この点に関しても、消費市場の差異による結果である。異性消費市場においては、男が手に入りそうな・恋愛性を容易に想像できる「女性」が描かれるため、そこには''クラスの中の一人''といった日常性の色が増すのである。そのため、''その辺に咲いてる花''がアイドルの定型となる。「会いに行けるアイドル」とはつまり、''男の手に入る存在''そのものである。
崇高の対象ともなり得るような、女性自らのワナビーを体現した超越的な理想像としての「女性」(つまり高嶺の花的である)ではないのだ。