9.15

わかりやすい話からはじめたい。

 

アイドルの市場には、同性消費市場と異性消費市場が存在する。同性によって消費されるか、異性によって消費されるか、といった話である。

 

80年代アイドルのトップは、基本的に同性消費市場である。たとえば松田聖子ファンの中心は女性である。彼女のアイドル像は、「女性の想う、女性の理想像」を反射していたからだ。家父長制といった社会の流れに根付いていた''男性に付き随う女性像''からの脱却といった側面が見え隠れした80年代。ある種の明朗的・開放的な意における「女らしさ(しかし旧来的な''お淑やかさ''は保っている)」を体現する、ロールモデルとしての存在であった。

 

一方、現代のアイドル消費は、基本的に異性消費市場である。当然そこに秘められるモノは、疑似恋愛性である。つまり、乃木坂46の姿は、''女性の憧れ''ではなく、''男性の理想的な交際相手''である。

 

たとえば不倫や離婚を繰り返した松田聖子の人気が衰えることは決してなく、一方、結婚発表を行ったAKB48はバッシングの嵐に遭った。松田聖子は同性消費であり、不倫に隠された「女性の開放性・自由性」を女性が支持する一方、異性消費であるAKB48は、結婚という、疑似恋愛性への破壊行動に対して不支持の論説が唱えられるわけである。


「昔のアイドルは高嶺の花だったのに、最近のアイドルはその辺に咲いてる花だ」といった悲嘆的な指摘を目にしたことがある。無論この点に関しても、消費市場の差異による結果である。異性消費市場においては、男が手に入りそうな・恋愛性を容易に想像できる「女性」が描かれるため、そこには''クラスの中の一人''といった日常性の色が増すのである。そのため、''その辺に咲いてる花''がアイドルの定型となる。「会いに行けるアイドル」とはつまり、''男の手に入る存在''そのものである。
崇高の対象ともなり得るような、女性自らのワナビーを体現した超越的な理想像としての「女性」(つまり高嶺の花的である)ではないのだ。